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2008年03月26日

パレンタル・フィルタ

以前に私も書いた件だけど、情報センタの実習室・自習室端末からブログが読めないことを、最近再び、他の教員から指摘された。
まぁこれに限らず、スパムフィルタについても、IDカード認証についても、基本的に、情報センタというものは不便なものなのだろう^^。なぜといって、全員が共同で使うのだから、基本サービスはすべて初心者レベルに合わせざるをえないから。ユーザ毎に相応のオプションを準備すればよいのだが、全体予算の制約や管理運用ソフトの仕様(デキの良し悪し)などから、なかなかうまくいかない。さらにソフト仕様の問題は、管理側の技術力や人手の問題も絡んで、話がとってもややこしくなる(なぜか良識にあふれる私^^)。
でも、ブログを読めないのはちょっとまずい。大げさに言うと、学部教育への干渉、情報センタの越権行為ではないかとも思えるから。たとえば、一部のブログは情報経済論・情報社会論分野の貴重な情報源になっていて、これが閲覧できないと、この方面の教育指導に大きな障害をもたらす可能性がある(Google Reader などで RSS フィードを拾っても記事の一部しか読めないケースがある)。YouTube を閲覧禁止にするのも残念である(こちらは微妙だけれど)。たとえば、ある人がどういう思想の持ち主なのか、どういう発言をしている人なのかを調べるときには、YouTube で直接その人の語り口を聞いてみるのが有用である。最近では、田中優という御仁の講演ビデオを見た。「日本人が米国債を買って米国の財政赤字を補填したからブッシュはイラク戦争を遂行できた」のだそうだ(ちょっと suspicious な人だとわかる)。

とまれ、この件は、たぶん学部教育に関わる問題。とりあえず、全学一斉の同一処理をせずに、学部毎の仮想代理サーバに(学部単位で)パレンタルフィルタを設置すれば、状況は改善されるはず。でも、上に記したような事情も絡んで、やっぱり難しいのかな・・・(良識にあふれる私^^)。

2008年03月22日

新入生に勧める本

図書館からの要請で、「新入生に勧める本」というのを、学部ごとに紹介せよということらしい。と、急に言われても、他の方のご意見をうかがっている時間が既にないので、思いつくままに独断で、以下のものを挙げておいた。

  1. 中島隆信『これも経済学だ!』筑摩書房(ちくま新書)
    平易な経済学への入門書。何のために学ぶのか、経済学はどんなことに役だつのかを、いろんな題材から幅広く紹介しています。
  2. 本田由紀ほか『「ニート」って言うな!』光文社
    「ニート」という流行語を、社会科学的に冷静に分析しようとしたもの。世間で流行している言葉やイメージの鵜呑みは禁物。冷静に真の姿を探ろうとする態度が大事です。「ニート」に対する、あなたのイメージはがらりと変わるかも。
  3. 中西輝政『国まさに滅びんとす』文藝春秋(文春文庫)
    日本の未来は暗い(かもしれない)。著者は、かつて英国が歩んだ衰退の道を、いま日本は歩みはじめたと言います。そして、日本の暗い未来をなんとか明るくするために、英国の歴史から学べるものはないかと考えています。
  4. 吉本佳生『金融工学の悪魔』日本評論社
    金融工学と呼ばれる最先端の金融商品や取引の仕組みを平易に解説しています。マネーの世界の動きを理解するには、経済学のセンスが大事。賢いデイ・トレーダへの第一歩。
  5. M.フリードマン『選択の自由』日経新聞社
    アメリカ流経済学の思想とロジックを明快にまとめた書物。グローバリズムと市場原理主義は、現代世界の抗しがたい一大潮流。市場原理主義に賛成するにも反対するにも、必読の書です。
  6. E.フロム『愛するということ』紀伊國屋書店
  7. 真木悠介『気流の鳴る音』筑摩書房(ちくま学芸文庫)
前年度リストと同様に骨の折れるものが多くなってしまったかも(もうすこし時間があればじっくり考えるんだけど)。最後の二つはボク自身の学生時代によく読まれていたもの。推薦文をつけようとしたが恥ずかしくなってやめた(列挙しはじめるとキリがなくなって、暗〜い本のタイトルがつぎつぎと浮かんでくる^^)。で、ふと、あの頃の雰囲気はあんまり変わっていないのかもしれないなぁなどと思う。もちろん名は変わりかたちも変わったけれど、jumping at a fanatic buzzword, それを正義とひたすら信じる naive な人たちはかえって増えているのでは(ずっと同じ人たちが扇動している気もするけど^^)。

2008年03月21日

疾走する幸せ

もう旧聞に属する話題かもしれんけど(昨日、喫茶店で週刊誌を読んで知ったので^^)、大阪府若手職員の朝礼で、ある女性職員が「あなたは労働者をバラバラにするようなことばかりやっている」と橋下知事にくってかかったそうだ(こちらのニュースなど)。知事は目くじらもたてず、むしろ「彼女は立派」と庇ったそうだが、あの物言いは古い労組のステレオタイプ。いくら知事が身内を庇って隠そうとしても、府庁内にはこういう体質が残っていて若手にも引き継がれていることを、全国の視聴者はまざまざと再確認したわけだ orz

共同研究プロジェクトの研究報告と予算消化に追われている。予算はけっきょく某天下り系会社からデータファイルを購入することに。予算締め切りが迫っているのでできるだけ早くしてくれと電話で懇願、ハイわかりましたと明快な応答はあったものの、どうせ親方日の丸独占業のことだから・・・と端から諦めて、来週一週間は毎日長距離電話で督促攻勢をかけるつもりでいた。と・こ・ろ・が!昨日(金曜)夜の7時過ぎに作業完了のメールが届いた。あの子たち、金曜の夕方に残業して仕事を仕上げてくれたんだ!ものすごく幸せな思いが体をかけぬけた。こんなにうれしいのはなぜだろう^^。

2008年03月18日

卒業式

昨日の卒業式パーティ。ゼミ生との個人的な関わりが、年々、希薄になっていることは否定できません。なんでかな。。とくに今年の卒業生ゼミはかなり薄かったかも(恒例の飛田百番での卒業コンパもとうとうしなかった)。個人的に比較的つきあいをした連中が留年組だったということもあります。それにしても集まった人数が少なくてちょっと不安。これから教務課まで、卒業判定合格者名簿をチェックに行ってきます。

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2008年03月15日

流行歌で綴る昭和経済史

『流行歌で綴る昭和・平成経済史』
社会学などにはもっと本格的な研究もあるんだろうけど、マクロ経済学者がこういうことをやりはじめたのも面白い。『青い山脈』の歌詞から、「民主主義は外から与えられたものか・戦前からあったものか」という問題を引き出したり、『スーダラ節』にひっかけて、「無責任男」は好況期に現れるといった説明はおもしろい(もっと敷衍してほしいところ)。三番目に取り上げられている『あぁ上野駅』からの推考も面白い。高度成長期に歌われた「勤労の歌」に対応するものが、現在の日本には見あたらないということらしい。いわく ---- 『若いおまわりさん』『新聞少年』『月の法善寺横町』、みんな労働の哀歌を歌っているが、就職氷河期は新しい勤労の歌を生んでいない。高度成長期には苦労は報われるという確信があったが、現在にはないようだ。つらい修行に耐えれば道は開けるといった「でっかい夢」は、修行という訓練プロセスを欠いたフリータではもはや形成されないのだろう。----
たしかに、具体的な職業を例にとって地道な努力の大切さを諭す歌は見あたらないのかも(『アテンション・プリーズ』あたりが最後?)。抽象的な、人生の応援歌の類(『ボロは着てても心は錦』型のスピリット)は健在だと思うけれど^^。

2008年03月10日

学力・日本のこれから

土曜の夜に NHK で放映された、「日本のこれから」と題する討論番組。20分ほど見ていたが、「偏差値が子供をダメにして日本社会をダメにした・偏差値を志向しない教育が必要である」という、典型的な?議論展開になってきたところで、チャンネルを変えた。20分しか見ていないので、以下は議論の本筋からは外れることかもしれんけれど・・・。

そもそもの、とっても素朴な疑問。いったい「偏差値」のどこがいけないのだろうか。偏差値は、競争のルールであり、「シグナル」である。生まれや育ちに左右されず、権威を持つ者の主観的な好き嫌い(たとえば教師が書く内申書)にも左右されず、子供たちが公平な競争を行うためのルールである。競争の結果として各人が得た偏差値は、各人の基本学力の多寡を示すシグナルでもある(それ以上のものではないが)。これに代わるものを見いだすのは難しいようにも思うけれど、まぁともあれ、これと、日本社会の凋落を直接に結びつけるのは、すこし乱暴な議論ではないかと思う。
官僚がダメ?なのは官僚組織が腐っているからであって、偏差値のせいではない。変革されるべきは組織であって、偏差値ではない。革新的な発想のできる社員がいないというのも、その会社に競争が無いからであって、偏差値とは無関係の話だ。さいきんの若い社員は人づき合いが下手で会社への帰属意識に乏しく他人への思いやりに欠けるなどという愚痴に至っては、その組織の採用選抜システム(と採用後の教育訓練システム)がおかしいというだけのことだろう。たしかに、若い世代の総人口は減少しており、したがって優秀な人の絶対数も減少しているだろうから、優秀な若手を見いだすのは難しくなっているはず。が、この原因はもちろん少子化であって、偏差値システムではない。

学校の優等生は社会の優等生ではない、と言う人がいる。学校の優等生には社会のなかで生きるチカラがないなどとも言う。そうかもしれない。大学卒業までは公平なルールで競争をしているのに、実際の日本社会にはそうした公平な競争が存在しないのだから。でも、学校の優等生と「社会」の優等生、「日本のこれから」にとってほんとうに必要なのはどちらだろう。

2008年03月07日

若いってすばらしい?

昨日は、9:30 から夕刻まで会議が5つ。しかし、7つ、8つという方もおられて、この大学の会議地獄に恐れ入る。
全学の情報化推進委員会(実は今年度はじめての出席^^)。ひさしぶりだが昔と変わらぬ、なんともいいようのない雰囲気^^。でも、若い職員さんサイドの一角だけがさわやかな良い質問を繰り返していて、なんだか良さげな感じ(あの人は情報センタじゃないんだな)。
学部広報委員会の新旧引継会。来年度は、私を含め(もとい私以外は)全員を若手で固めたんだけど、それにしても、N氏やY氏はなぜあんなに元気がいいのか^^。

あなたに笑いかけたら・そよ風がかえってくる・若いってすばらしい、かも。。寝ても覚めても憤りに顔を歪めているなんて実にバカらしい(わかっちゃいるけど、自然とそうなっちゃうのよね、はぁ〜あ^^)。

2008年03月01日

ソナタ形式と弁証法

続けて、音楽の話題^^。大学院生の頃に『ヘルメスの音楽』という本を数頁ながめて読むのをやめてから、音楽評論の類をいっさい読んだことがない。『ヘルメス』の大先生は語る ----- 疾走するかなしみ<トリステス・アラント>は、小林秀雄がケレン味たっぷりの悲劇的所作で指し示してみせた後期のシンフォニーのアレグロにではなく、むしろ、中期のロココの輝きに満ちたアダージョの中にこそ見いだされる。そして、もちろん、プレストで飛翔するロンド!----- ボクにもなんとなくわかる範囲で注釈を試みますと、40番交響曲において「疾走する(後期の)モーツァルト」より、グールドというピアニストが奏でるモーツァルト中期のピアノソナタのほうが「草原のチータにも劣らぬ疾走ぶりを示している」そうなんですけど・・・^^。

しかし昨日、本学図書館2階でふと見つけた本(『クラシックを聴け!』許光俊)は面白かった。帰りの1時間強の電車のなかで熱中して読み通してしまった^^。19世紀の作曲に多用された「ソナタ形式」(主題となるメロディの提示→展開→再現)を、正→反→合の弁証法になぞらえて、この形式が描く曲の流れ、つまり葛藤(展開あるいは反)の末に調和(再現あるいは合、「ハッピーエンド」)に至るプロセス、特に、葛藤→調和への転機となる局面を聴き分けることが「クラシック音楽のキモ」だという。上掲『ヘルメス』の大先生が「チータにも劣らぬ疾走ぶり」と評したピアノ・ソナタ(K545)を例にあげて、これをソナタ形式弁証法の典型としている。たった3分ほどの曲のなかに、正→反→合の過程が実に巧みに埋め込まれているそうだ。その様子を5頁にもわたって詳細に解説してくれている(帰宅後にさっそく、K545第一楽章 3分強を10回ほど聞き直した^^)。しかし、このソナタ形式が予定調和的にすんなり止揚に至るのはモーツァルトまで。モーツァルトは君主制のなかで生まれ育った人だが、それ以降の作曲家は、君主を打倒し神を相対化して個人の理想を求める時代に生きた人たちだから。ベートーヴェンは、反→合への転機をとうとう作ることができず、『第九』のフィナーレでは、歌い手にその役割を負わせた(おお友よ・このような調べではない・もっと快い喜びに満ちた歌をともに歌おうではないか)。「ズルい、ズルすぎる、こんなのありかよ」、だそうである^^。シューベルト(実は完成されている『未完成』)は、結局、現世における止揚を諦めて、死(天国における平穏)を描いて幕引きとした、等々。
許光俊(某KO大学教授)の名前は知っていたけれど、この人が編集して仲間に書かせている音楽入門書にはロクなものがないと思う(なかには、演奏家の名前を間違えて紹介している下らないものまである*)。でも、この単著は、おもしろかった。ちなみにこの人の語り口は、どこまでも『文学部唯野教授』に似ている。

* 『クラシックのキモ』P17 「ロジャー・ノリントン」を「ロジャー・ロリントン」としている。「鉄筋コンクリート」を「テッコンキンクリート」と言ったりすることを、スプーナリズムというそうだが、これをさらに聞き間違えたのだろう。