ソナタ形式と弁証法

続けて、音楽の話題^^。大学院生の頃に『ヘルメスの音楽』という本を数頁ながめて読むのをやめてから、音楽評論の類をいっさい読んだことがない。『ヘルメス』の大先生は語る ----- 疾走するかなしみ<トリステス・アラント>は、小林秀雄がケレン味たっぷりの悲劇的所作で指し示してみせた後期のシンフォニーのアレグロにではなく、むしろ、中期のロココの輝きに満ちたアダージョの中にこそ見いだされる。そして、もちろん、プレストで飛翔するロンド!----- ボクにもなんとなくわかる範囲で注釈を試みますと、40番交響曲において「疾走する(後期の)モーツァルト」より、グールドというピアニストが奏でるモーツァルト中期のピアノソナタのほうが「草原のチータにも劣らぬ疾走ぶりを示している」そうなんですけど・・・^^。

しかし昨日、本学図書館2階でふと見つけた本(『クラシックを聴け!』許光俊)は面白かった。帰りの1時間強の電車のなかで熱中して読み通してしまった^^。19世紀の作曲に多用された「ソナタ形式」(主題となるメロディの提示→展開→再現)を、正→反→合の弁証法になぞらえて、この形式が描く曲の流れ、つまり葛藤(展開あるいは反)の末に調和(再現あるいは合、「ハッピーエンド」)に至るプロセス、特に、葛藤→調和への転機となる局面を聴き分けることが「クラシック音楽のキモ」だという。上掲『ヘルメス』の大先生が「チータにも劣らぬ疾走ぶり」と評したピアノ・ソナタ(K545)を例にあげて、これをソナタ形式弁証法の典型としている。たった3分ほどの曲のなかに、正→反→合の過程が実に巧みに埋め込まれているそうだ。その様子を5頁にもわたって詳細に解説してくれている(帰宅後にさっそく、K545第一楽章 3分強を10回ほど聞き直した^^)。しかし、このソナタ形式が予定調和的にすんなり止揚に至るのはモーツァルトまで。モーツァルトは君主制のなかで生まれ育った人だが、それ以降の作曲家は、君主を打倒し神を相対化して個人の理想を求める時代に生きた人たちだから。ベートーヴェンは、反→合への転機をとうとう作ることができず、『第九』のフィナーレでは、歌い手にその役割を負わせた(おお友よ・このような調べではない・もっと快い喜びに満ちた歌をともに歌おうではないか)。「ズルい、ズルすぎる、こんなのありかよ」、だそうである^^。シューベルト(実は完成されている『未完成』)は、結局、現世における止揚を諦めて、死(天国における平穏)を描いて幕引きとした、等々。 許光俊(某KO大学教授)の名前は知っていたけれど、この人が編集して仲間に書かせている音楽入門書にはロクなものがないと思う(なかには、演奏家の名前を間違えて紹介している下らないものまである*)。でも、この単著は、おもしろかった。ちなみにこの人の語り口は、どこまでも『文学部唯野教授』に似ている。

  • 『クラシックのキモ』P17 「ロジャー・ノリントン」を「ロジャー・ロリントン」としている。「鉄筋コンクリート」を「テッコンキンクリート」と言ったりすることを、スプーナリズムというそうだが、これをさらに聞き間違えたのだろう。

このブログ記事について

このページは、eiichiが2008年3月 1日 14:34に書いたブログ記事です。

ひとつ前のブログ記事は「ディーリアスを教えてくれた彼女」です。

次のブログ記事は「若いってすばらしい?」です。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。

月別 アーカイブ

ウェブページ

Powered by Movable Type 5.13-ja