学力・日本のこれから

土曜の夜に NHK で放映された、「日本のこれから」と題する討論番組。20分ほど見ていたが、「偏差値が子供をダメにして日本社会をダメにした・偏差値を志向しない教育が必要である」という、典型的な?議論展開になってきたところで、チャンネルを変えた。20分しか見ていないので、以下は議論の本筋からは外れることかもしれんけれど・・・。

そもそもの、とっても素朴な疑問。いったい「偏差値」のどこがいけないのだろうか。偏差値は、競争のルールであり、「シグナル」である。生まれや育ちに左右されず、権威を持つ者の主観的な好き嫌い(たとえば教師が書く内申書)にも左右されず、子供たちが公平な競争を行うためのルールである。競争の結果として各人が得た偏差値は、各人の基本学力の多寡を示すシグナルでもある(それ以上のものではないが)。これに代わるものを見いだすのは難しいようにも思うけれど、まぁともあれ、これと、日本社会の凋落を直接に結びつけるのは、すこし乱暴な議論ではないかと思う。 官僚がダメ?なのは官僚組織が腐っているからであって、偏差値のせいではない。変革されるべきは組織であって、偏差値ではない。革新的な発想のできる社員がいないというのも、その会社に競争が無いからであって、偏差値とは無関係の話だ。さいきんの若い社員は人づき合いが下手で会社への帰属意識に乏しく他人への思いやりに欠けるなどという愚痴に至っては、その組織の採用選抜システム(と採用後の教育訓練システム)がおかしいというだけのことだろう。たしかに、若い世代の総人口は減少しており、したがって優秀な人の絶対数も減少しているだろうから、優秀な若手を見いだすのは難しくなっているはず。が、この原因はもちろん少子化であって、偏差値システムではない。

学校の優等生は社会の優等生ではない、と言う人がいる。学校の優等生には社会のなかで生きるチカラがないなどとも言う。そうかもしれない。大学卒業までは公平なルールで競争をしているのに、実際の日本社会にはそうした公平な競争が存在しないのだから。でも、学校の優等生と「社会」の優等生、「日本のこれから」にとってほんとうに必要なのはどちらだろう。

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このページは、eiichiが2008年3月10日 00:40に書いたブログ記事です。

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