安っぽいフレーズ

先日、ゼミ生の進学の件で入試課をたずねたところ、新しい大学院案内の冊子が既に公刊されていることを知った。案の定、今年のものも、感心できない。実は、前年度の同冊子のうち、経済学研究科の部分のみが特にひどいと思ったので、学部広報委員の立場上、「こういう公刊物は事前になるべく多くの者が点検すべき」という提案を、7月の時点で、研究科長に申し出ていた。しかし、彼らは、広報委員会に原稿を見せることすらしなかった(広報委員会の校閲申し出は拒絶された)。で、結果がコレ。

細部はおいて、経済学研究科の章の冒頭部分。憎まれ口ばかりをたたくようだが、この冒頭の見開き2ページに、安っぽさが露呈している。見開き左ページのキーフレーズは「勇気を知識に昇華できる場所がここにある!」、右ページのキーフレーズは「観察眼と分析眼を磨く」。いずれもおかしいと思う。

まず、「勇気を知識に昇華」。安っぽいフレーズだ。「昇華」とは「個体が(液体の状態を経ずに)気体になること、(転じて)物事がさらに高次の状態へ一段と高められること(広辞苑第五版)」。たとえば「知識を智慧に昇華する」、あるいは「知識を勇気に昇華する」、このいずれも違和感はない。しかし、「勇気を知識に昇華する」とは・・・^^(いやまぁ趣旨は自明なので誰にでも推測できるんだけどね、だからこそ、半可通は避けて、もっと素直に書くべきではないんだろうか、「勇気に知識を与える」とか)。

それから、「観察眼と分析眼」。このふたつはどう違うのか。そもそも、観察とは「物事の実態を見極めること(広辞苑)」であるが、観察には一定の観点(分析)が必要で、分析能力が高まるほどに観察力も鋭くなる。分析を伴わない観察はないなら、観察眼とは分析眼に他ならない。この場合、「観察眼より分析眼を重視する」といった表現は意味をなさず、この文章の前半部は支離滅裂となる。素直に「情報収集と分析」とでも書けばよいものを、小難しい用語を不正確な定義のままに使うから、話が不明瞭になるのだ。不明瞭な前半部に照らすと、後半部の「(数学を使えば)明晰な論理を自在に操れる」等の主張も虚しく響くが・・・(これ以上は書かない)。

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このページは、eiichiが2008年8月30日 10:21に書いたブログ記事です。

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