「歓喜の歌」の別解

ひょんなことから、「人生に目的はあるのか」と題された、興味深い文章を読んだ(こちら)。筆者によれば、人生の目的とは【快適に生きること】。

これだけ広い定義では異論はまず来ないだろうけれど、経済学の文脈では「消費者主権」という用語が連想される。現代経済学における至高の目的関数はわれわれ消費者ひとりひとりの効用(満足)最大化であり、個々人の幸福追求を阻害する要因、つまり、社会における不公正(機会の平等に反する差別、狡猾なただ乗りや馴れ合い、等々)を是正することは、経済学の存在意義でもある。もちろん経済学は私的感情的な類のものではないから、私利私欲による判断をとりあえず停止して、理論的実証的に考察をすすめることが必要。そういう公的なる精神を共有し涵養する場が、大学の経済学部ではないかとも思う。

閑話休題^^。この文章の末尾に引用されているシラーの「歓喜の歌」(ベートーヴェン「第九」最終楽章の合唱曲)の一節を見て思い出したことがある。

一人の友の友となる、その偉大な企てに成功した人/やさしい妻をかち得た人/この人たちこそは歓呼の声を共にせよ/そうだ、この地上でただ一つでもよい/ある魂を我がものと呼ぶことの出来る人も/それをなしえぬ人、その人は/この団結の輪から、涙を流して去ってゆくがよい
この詩には、別の日本語訳がある(許光俊『クラシックを聴け!』)。
なんとか誰かとマブダチになれたヤツ/優しい女を見つけたヤツ/よろこびの声をみんな一緒にあげようぜ/世界にただひとりでも/気持ちをわかりあえるヤツがいるヤツはだ/でも、それが全然できないヤツは/みんなから離れて泣いていろよ
この歌は、シラーが若い頃に酒宴の席で口走り、ボンの学生たちが酒場で酔っぱらってがなっていたものだそうだ。シラーとベートーヴェンはともに18世紀末から19世紀初頭に生きた人で、当時の若者の熱き血潮(酩酊の熱狂)がなんとなく感じられる。ベートーヴェンは、この詩を若い時に知り、晩年まで心に秘め続けた(酔っぱ学生たちが晩年までこの詩を心に秘め続けたかどうかは不明だが)。「第九」は、ベートーヴェンの、いわばスワンソング。大仰な日本語訳の歌詞と豪華絢爛の管弦楽に演出されるけれど、そこにはやはり、諦めやノスタルジアが込められているのでは・・・。

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このページは、eiichiが2009年2月24日 14:45に書いたブログ記事です。

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