運動会、海老江のこと

明日の日曜日、高校同窓の仲良しグループが大阪城リレーマラソンに参加するので、カメラを持って応援に行く(うまく撮れるといいけど、ちょっと不安^^)。50歳を過ぎて一人(最低)2kmのリレーマラソンに挑戦する元気には敬服(ボクは2005年6月にこっぴどく捻挫して以来、5m以上の小走りもしたことがないので、走者役は早々とパス^^)。

で、運動会の気分でいて思い出したのが、小学校のときのある先生のこと。作詞が趣味のようで、小学校の校歌や応援歌を作っておられた。私は海老江東小学校(大阪市福島区)の出身なんだけど、この先生の作った運動会の歌を断片的に思い出した。海老江の子供だ/意気たかく/走れ/海老江の良い子供 -- いい歌でしょう? 海老江の子や・負けたらあかんで~と子供を応援し地区を愛する、先生の鑑のような人^^。で、正確な歌詞を調べてみようとしたんだけど・・・どうやら先生の名前は、和田欣也先生かな。それ以外には有用な情報は見あたらず(まぁまたヒマな時にでも・・・^^)。

で、「海老江 子供」などで検索していると、海老江名物の夏祭りの記事が出てきた(こちらの紹介文、または大阪だんじり所在地)。海老江八坂神社の夏祭りはかなり大きな祭りで、東西南北4つの町(東之町、西之町、南之町、北之町)がそれぞれ自慢のダンジリを出し、豪華さや勇猛さを競いあう。4つのダンジリは、午前中に神社を出発し、日中ずっと町内をねり歩いて、夜に神社に戻る。神社に戻る儀式を「宮入(みやいり)」と呼ぶが、これがすさまじい。神社前の狭い道を全速力で駆け抜けて神社に突入した後、神社の境内でダンジリが踊り狂う。祭の終わりを名残りおしんで、ダンジリが倉庫に格納されるのを拒んでいる感じ。力自慢、喧嘩自慢の若い衆が、へとへとになるまでダンジリを担ぎ続ける。父はこの祭に深く入れ込んでいて、私の高校時代に、北之町の総代をつとめたことがある。宮入のあとには総代の胴上げがあるから写真を撮ってくれと父に頼まれたのを覚えている(でも、適切な機材もなかったし、当時は日本的なるものを否定する教義に染まっていたから^^、イヤだと断ってしまったんだな)。 この祭について、いくつか不思議に思うことがある。近隣の町に比べて、「労働者の町」海老江だけになぜあんな豪勢な夏祭りがあるのか。また、実は、東西南北の四つの町のうち、北之町だけはダンジリ(「地車」)ではなく、大きな太鼓を積んだ台車(「枕太鼓」)で、宮入りの順序はいつも最初だった。質素な枕太鼓に、万年前座の宮入り。他の三つの町とはあきらかに異なっているのは、なぜだろう。北之町、つまり私の出生地付近は、北大阪線沿線の淀川沿いの貧しい地区でダンジリを作れなかったのだろうか(あるいはダンジリを持つことを許されなかったのか)、等々。ちなみに、海老江の歴史は西暦947年まで、八坂神社の歴史は西暦1125年まで、夏祭りの歴史は1716年までさかのぼることができるそうだ(八坂神社宮司の話)。

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このページは、eiichiが2009年3月14日 15:05に書いたブログ記事です。

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