くだんの600人講義が、そろそろ、鬱陶しくなってきた^^。始業数分前に教室に入っていくと、大音響が鳴り響いている。始業チャイムが鳴ってボクが教壇に立っても、この大騒音はまったくおさまる気配がない。声を限りに「だまれ」と叫ぶと一瞬静まりかえる。で、授業をはじめる。しかし私語による騒音はピアニッシモからピアノへと徐々に高まっていくので、メゾピアノあたりになる直前に「だまれ」と叫んで、静寂に戻す。これをおよそ10分~15分周期で繰り返す。 まぁこんなことは、数十年前からいずこの私立大学でも続いてきた現象だし、どうにもならないことだとも思うんだけど・・・。ためしに、「大教室・私語」といったキーワードで検索して、いくつかのページを流し読みしてみた。たとえば、書評:「私語研究序説ー現代教育への警鐘」。ある女子大の教育研究所がまとめた調査報告書(の書評)。
この報告書によると、私語というのは日本の学校に特有の現象らしく、これは「戦後民主主義が公私のけじめを弱体化」させ、「公衆道徳の低下・私欲の拡張・他者の人権への無感覚」をもたらしたからだという。公私のけじめに疎いのは日本に限ったことではないだろうとも思うが、たとえば中国の大学では、徹底した管理教育によって私語などが生じる余地はないらしい(受講生のなかに監視員がまぎれこんでいて態度の悪い学生を摘発するとか?これ、よいかも・・・^^)。
報告書には、私語をする学生の側の言い分も収録されていて、これがまたごもっとも至極にして、教員側のやる気を木っ端みじんに粉砕してくれる^^。「私語はストレス解消になり、むしろ授業に集中するきっかけにもなる」「授業はそこでしか友人と出会えない重要なコミュニケーションの場」「授業が面白くないことへの暗黙の抗議として」「人は他人といっしょにいれば会話するのが通常で、一方的に講義を聞かされる方が異常だ」ということだそうだ。何をか言わんや^^。 いやいや、何をかくそう、私が30年前に卒業した大学でも同じような状況でした。たまに出席しても、まわりの私語騒音に耐えられない。教員が松阪慶子とお茶を飲んだ自慢話をはじめた時にだけシ~ンと静まりかえっていた記憶があるが、そんなやる気のない連中の理解力にあわせるものだから、講義のレベルが低すぎて、そもそも出席してもまったく意味がない。だから、ボクは講義に出席した記憶がほとんどないんです^^。マルクスやウェーバーといった名前はサークルで学んだし、理論経済学や計量経済学は(大学院に入るまでは)まったくの独学です。ちゃんとした専門家に教えを乞いたいという願望はもちろん常にあったけれど、その場がレジャーランドに化していてはどうしようもなかったんだよね~。。