↓中平卓馬語辞典からの流れで、中平の近年の写真を批評しているページを探していたら、なぜか、金村修というヒトの文章を目にしてしまった(全文はこちら)。
選択に主語は必要とされない。選択こそが主語を不断に構築しつづけるからだ。・・・(中略)・・・選択的行為は私達の砂漠の本性を剥き出しにさせる。私達の砂漠とはル・クレジオの自転車の走行+女の靴音の響く迷路+砕石道路の割れ目に滲み出る下水+鉄格子の柵+耳をつんざく音響のほぼ完成した沈黙+十五階段+大理石坂のように凝固した冷たい空気と、ポリエステルの匂いが漂う不自然な土砂降りの響きが、正確な尊守すべき目盛、非人間的な遊戯のルールを示している、独自で絶対的な体系をそなえた砂漠のモグラの死から写真は始まる。主語は必要ないそうだ。確かにこの文章では主語が混乱している(芸大でも作文のリメディアル教育は必要では・・・)。
ところで、「ル・クレジオの自転車の走行」とは何だろうかと(真剣に^^)検索してみたところ・・・ル・クレジオがノーベル文学賞を受賞したときに、大江健三郎は絶賛したが、石原慎太郎は「(あれは)自転車のハンドルの角度を変えてみた程度」と批判したという話が出てきた。これかな?確かに文脈にはあっているけれど、これでは真剣に検索してちょっと損した気分(いや、相当に損した気分だ^^)。