教育と民意

↓の北新地での宴だが、やはりメインの話題は大阪秋の陣(知事選・市長選)だった(と思うが、あまり覚えていない^^)。新潮や文春の愚劣なネガティブキャンペーンを笑いとばしたあとに、例によって、教育に政治や市場を持ち込むなという話になった(ようだ^^)。でも、これは、どうにもよくわからない話だと思う。

『橋下主義ハシズムを許すな!』などという本を何度読み返してみても、何を言っているのか、わからない。教育に政治を持ち込むなというけれど、「政治的中立の名のもとに、実際には学校現場が政治性を帯びた教員組合による自治管理に陥っている」(産経ニュース)というのは、多くの人が思うところではないだろうか(たしか、北朝鮮から勲章を受けた元日教組委員長も「教育に政治的中立などありえない」と語ったのではなかったろうか)。また、「民の力」を「市場」と読み替えて「(教育を)カネ儲けの手段にしてはならない」というが、そもそも、そんな話は誰もしていない。「民」が求めているのは、選択の自由だろう。たとえば、近隣の公立学校には、国旗を掲揚し国歌を歌う自由がないと考える人がいるとしよう。この自由を求めて子供を私学へ行かせることは、貧しい親には不可能だ(税金で公立学校の運営費を負担した上に、私学の学費も払わねばならないのだから)。カネ持ちだけがこの自由を手にできる。そんな(お上の意にそぐわない)自由がほしければカネで買え、そう言っているのはどちらの方だろうか。

この本の付録に掲載されている「日本ペンクラブの反対声明」もわからない。「これではまるで工場の品質管理です。工業製品であれば一定の品質確保は必要ですが、それが人間に向けられると、不適格とされたヒトが生活を奪われるだけでなく、教育の場に均質の教職員だけが残り、均質の教育が行われ、均質の子供たちが育ってくることになる」とある。しかし、およそ組織と名のつくものが正常に機能するためには、そこで働く者(教職員)の「一定の品質確保」は必要である。さらに、この「品質確保」によって「均質の教職員だけが残る」とするのは、(ペンクラブの文章とは思えないような)論理の飛躍だ。すばらしい個性を持った者はみな組織不適合で、組織に適合できる人間はみな「均質」でつまらない連中だという、そんな公理がどこにあるのだろうか。

まぁ、自分なりにもう少し考えてみたいと思う。正月休みのために、数冊、教育経済学の本を買い込んだ。

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このページは、eiichiが2011年12月27日 02:41に書いたブログ記事です。

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